ヨガる。

『 No meditaion No life 』   抵抗せずに、判断せずに、執着せずに・・・調和する 

PTA・地域活動・・・子育て

ボランティア的 諸活動について

私は普段、そんなに忙しくはないのですが、先週からPTA・自治会(地域活動)・仕事となぜか毎晩予定がつまってしまった。

 

私はPTAや地元自治会の役員をしているので、周りからはサイパンさん 良く見かけるなぁ」と思われている と、思っている(思われていないかもしれません)。

 

たぶん周りからはサイパンさんはPTAとか地域活動好きだよね」と思われている と、思っている(思われていないかもしれません)

 

けれど本心を言うと、家でヨガをやったり本を読んだりと「自分の時間はいくらでも欲しい」と 常々思っている。

 

もちろん、自分や子どもたちの為にも「できるコトは協力したい」とも思っているし、このような諸活動を通して、色々な人とのつながりが出来ることは、とても貴重なことである。

特に子どもを通したつながりは相手との垣根が低くなるので(ウチの地域では)、お互いに仲良くなりやすい。

 

 

 どう考えるいろんな活動? 

じゃあ、私が行っている諸活動の目的は何なのか?と自分に問うた時、よく返ってく思考の答えは「何かあった時(困った時)」のために地域とつながれる様に「やらないといけないんだよ」と自分(思考)に言われれ、渋々参加することも多々ある。

  

「何かあった時のために」活動をしておく「何かあった時のために」保険をかけておく と言うことであろうか?(自問)

 

では、ザックリだけど、月に10時間ほど社会奉仕(諸活動)すれば、安心して暮らせるのだろうか?

金額にして7,140円(10H×714円 ※沖縄の最低賃金)、それで何かあった時の保険となりうるのか?

 

今の私の任意の医療保険が6千ちょっと、それで、いろいろな疾患に対応してくれるらしいが、「何かあった時に」返ってくるか不透明な人間関係に7千円を払うよりは、その分を別の保険に回した方がリターンは確実ではないだろうか?と思ったりもする。

 

 

投資や経済で考えていいの?

どの本だったか忘れたけど、勝間和代さんの本に「子どもを作ることは将来への投資」と考えて、子作りを推奨している内容がありました。※子供を作るとお金がかかる!と言う考えへの別視点提案で「投資」と言う言葉を使ったのだと思います… 

 

その頃私も「そうだ!そうだ!」と投資の言葉だけを鵜呑みにし「老後はお願いね子供たち」、「今お金かけるけど、あとで元本割れはゴメンだよ」なんて思ったことがあるんだけど、人間関係を投資として考えると、何かとても違和感を感じてしまう。※時には経済的視点も必要だとは思いますが

 

 

生産性のない(と誰かが評価する)人はいらないのか?子供が投資金額を回収できなかったり、自分の老後の世話をしてくれなかったりすると不良債権になるのか?で、もっと言うと「あなたは生産性が無い」って誰が決めるのか?どこで線を引くのか?などなどいろいろと考えさせられる。

(勝手に「あいつは生きている価値がない、だから生きる必要はない」と誰が決めるのか?) 

 

と、少し脱線してきたので話しを戻すと

私のやっているPTAや地域活動(ここから子育ても入れておく)は、保険として何かあった時のためのリスクヘッジとして行うには効率は良くないとしか思えない。投資や保険として考えるのなら他の商品を購入することを考えた方がよい。

 

それでも、なぜそんな緒活動を行うのか?それは「なにかあっ時のために」、と言う将来の不安解消のために行うことなのか?

そんな考えで活動をしても長続きしないし、不満しか自分の中に溜まっていかない。要するに「自分が疲れる」んですよね。

 

 「じゃあどうする?」と、また自分に問いかけてみる。それでやっと出た(何年もかけて)答え(気づき)が単純にその諸活動を楽しむ」ことなんだよね(簡単なコトだけど、自分にとっては遠い考えだった はぁ~疲れる)。

 

~のために~をする」「~すべき」は、私の思考にこびりついたメンドくさい考えなのですが、ヨガ的に言うと(仏教的かな)「結果を求めて行動をするのではなく」「その行いの一つ一つを目的として大切にする」。先のことばかり考えているのは心がどこかに彷徨っている状態なので、何にせよ「今にいる」ってコトが大切なんですよね。

 

呼吸を例に出すと、生きる為に呼吸をするのではなく「呼吸することが生きること」であり、これまで気にも留めなかった呼吸を大切にしてみる。結果を求めず(妄想せず)今を大切にしてみると、結果人生の質がどんどん高まっていくのではないかと思ったりする。

 

今、自分にある「PTA・地域活動・子育て」。何かのために「やる」のではなく、ただ「やれ」ばよくて、さらに「自分が楽しく」が加われば、結果周りとの人間関係も作られるのではないかと思うようになってきました。

 

ただ、そんな活動も嫌な(やりたくない)ときもある。

 

その時は自分の気持ちに抵抗せず、ただやらなければいいと思う。

無理をすると、誰かを恨んだり、自分を恨んだりして、まわりにも自分にも多大な迷惑がかかる。だったら、スッといなくなってちょっとお休みすればいい。

 

「自分にできることを大切にやる」そして「楽しくある」。ただそれだけが私たちの役割なのかもしれません。